久根津、捕鯨時代の思い出

2012年12月20日 | 関連する集落:久根津
大正時代と、昭和30年代に捕鯨基地があり
とても賑わった久根津集落。

以前、その歴史について触れました。
 「久根津とクジラのかかわり」 http://higyajiman.amamin.jp/e299861.html 

当時のお話をうかがおうと集落をまわったところ、
象徴的な時代を覚えていたお二人に運良く出会えました。

まず一人目は、
大正11年生まれ、現在90歳の久原ミスエさん。

久根津で捕鯨会社が最初に操業したのは、大正元年~10年ごろ。
その当時はミスエさんはまだ生まれていないので、
ミスエさんの捕鯨でにぎわった頃の記憶は大人になってからのもの。
密航船の来ていた昭和20年代のお話です。


ミスエさんは、戦争中満州にいて
昭和22年に奄美大島へ引き揚げてきました。

戦後、本土復帰(昭和28年)前の米国管理下、
まだ地元の漁協から何も言われず、、
密航で捕鯨船が入って、クジラを自由に獲っていたそうです。
 

▲久根津の久原ミスエさん


ドラが3回鳴ると、人であふれた久根津

「その頃は自由で、クジラを食べ放題でした。すごかったです。
それは今でもよく覚えています。
捕鯨船も貨物船も来てにぎやかだったし、クジラで久根津はだいぶ潤いましたよー。

密航の船だったので、クジラを解体してあらかた肉をとった後、
身のいっぱいついた骨も何も捨ていていって逃げるようにして帰っていってました。
肉を取った後は内蔵を捨てっぱなしにしていたから、臭かったですね。
そのうち2~3年して、こっちの漁協がやかましくなって密航船も引き揚げていきました。


捕鯨船はクジラを獲って帰ってくると、
皆津崎から大島海峡に入って、
古仁屋の沖合いを通過するあたりでドラを3回鳴らしてね。

それを聞いた瀬戸内の人たちは、
みんなそのまま走って久根津に集まってきた。

クジラの解体場(現在の奄美養魚)では、身のついた骨そのままポーンって捨てていたから、
私たちは、それを剥ぐために包丁を研いで肉剥ぐのを待ってたんですよ。
あちこちのシマから自由に来て、人々が群がりよったからすごかったです。

クジラの頭も投げ捨てていたし、肉がいっぱい付いたまま骨をバンバン投げ捨てていましたから。
肋骨などは自分の作業のしやすいところに持って行って作業するんです。

もう最高でしたよ~。
持ちきれないほどクジラ肉を持って帰ってきました。

4斗樽の大きな樽にみんな塩漬けして10年ぐらい食べたのを覚えていますよ。
冷蔵庫のない時代だったけど、塩漬けしていれば大丈夫だったから。

捕鯨船の乗組員は、内地の人。
久根津の人で船に乗る人はいなかったです。

クジラが獲れたら金儲けがあった。
日当で現金収入があったので、シマの人は招集されていた。
男性はクジラの解体の応援、女性はクジラを引き上げる滑車を回す役目でね。
クジラの尻尾をロープでくくって、それを引き上げるんです。
昔の砂糖車みたいに回してボツボツ引き上げていた」。
 

▲クジラ解体処理に使われた包丁(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。
刃渡り約45センチ、本来は柄が約2~3メートルあり、
高い位置の処理に使ったとみられる



クジラの食べかた

「うちの主人が区長をしていたから、
クジラが獲れたら必ず何十キロかの肉の塊を船長さんが区長のためだと言って持ってきよったです。
砂糖醤油で炊いたり、塩をかけてちょっと干からびたのを焼いて食べたり。
主人は刺身(生姜・酢・醤油)で食べていました。

皮はカワンムィと方言で言ってました。皮が美味しいんです。
オバは尾羽と書いて、これは尻尾の部分。

船員はオバも捨てていたから、私などはすぐ走ってオバの部分を取りにいった。
オバは茹でて、塩して、熱い湯をかけたらクリっとなるので、
野菜と混ぜたり、酢味噌で食べたりしましたよ。
オバ(尾羽)などは大きな皿に盛って食べていた。

クジラの皮を油で揚げることもあった。それを大きく切って油でから揚げにする。
それを「アブラカス」と言って、前は売っていましたけどね。
新鮮なブエン(刺身)では油が強いから、揚げることで油抜きになった。
それを冬とかは野菜と一緒に炊いて食べたりしましたね。

舌も美味しかったんですよ。舌は焼いて食べる。

私たちはクジラ肉がいよいよなくなるという時に、塩漬けして食べた。
塩漬けを食べる時は、茹でれば塩分が取れるからいいんですよ。
焼いて肉を子どものおやつにもしていました。

クジラの肉で1番上等は霜降り。
船員が赤肉を持ってくる時があったら、
『白が混じっているのがおいしいですよね、船長さん』と言うと、
次からは霜降りを持ってきよった。

ほんとうに美味しかったですね」。


集落を潤したセンピリョウ(千尋)

「クジラは捨てるところは何もない。

腸のことをセンピリョウ(千尋)と言って、
大きな腸だが、それが美味しいのでよく食べました。

密航船の船員は内蔵は処理できずに畑に埋めていったので、
それを見た集落の人たちは、
親田原(現在の民宿「よーりよーり」)のところに小屋を建てて
内蔵を茹でて食べられるようにする施設を建設してました。
クジラ肉よりも内蔵が美味しいと評判になったんです。

集落で内蔵やセンピリョウをいっぺんにもらって処理をしてきれいにして。
食べやすいように切って、茹でて。
それを安くで古仁屋で売りよったんです。

センピリョウの味付けは砂糖醤油が普通。
野菜のダシにしたり。

古仁屋から競争して買いにきたほどで、
久根津はクジラのセンピリョウ販売でずいぶん潤って、集落費も稼ぎましたね~」。



青年団の資金作り

「青年団が資金作りしたのは演劇でした。
青年処女団だから結婚していない人たちで運営していた。
今で言えば80歳代後半の方々で、亡くなっていない人も多い。

戦争から引き揚げてきた人たちが芸達者が多くて、
ギターを弾く人、脚本書く人、監督みたいな人がいて垢抜けた芝居をさせていて大評判でした。
あちこちから演劇をまたしてくれと頼まれることがあって、
資金を稼いで真っ先に公民館立てたのも、公民館に畳を入れたのも久根津が最初です」。


「親戚」も増えた!? 久根津の人々

「昭和22年に満州から引き揚げてきて、
ほそぼそと芋なんか植えて食べれるようにしたり、サトウキビ植えたり。
少しずつ収入ができたけど、つらかったですよ。波瀾万丈でした。

自分たちで食べるぶんの野菜を作って自給自足だった。
あの頃はお肉など自分でお金出して買って食べる人はいなかったでしょう。
捕鯨会社がきて、ずいぶんいい思いをしました。

クジラの肉剥ぎをしていたあの時、
久根津の人たちは、今まで知らなかった『親戚』がたくさんできましたよ。
これで親戚ができて、今でもつきあっている人もいますからね。

戦争で、瀬戸内全部が食べ物のない時代にクジラのおかげで助かった。

いま思えば、夢みたいな時代でしたね。
もうあんな時代は二度とないでしょうねー」。





    *   *





もうお一人、捕鯨時代の思い出をお話してくださったのは、
久根津集落の区長、久原章司さん。
昭和30年生まれの57歳、現在、集落にある「奄美養魚」にお勤めです。




 

▲久原章司さん。奄美養魚の敷地にあるクジラの肋骨

「クジラが揚がった記憶は一回だけ、昭和36年の時。
クジラが揚がった最後で
私が小学校1年生の時に母親におんぶされて見た記憶があります。

当時は製糖工場も稼働していて(現在の教員住宅は製糖工場跡)、
『クジラが揚がった~!』とか言って、ムラがにぎわっていた。

滑車を大木にかけて男性陣が『ヨイショ、ヨイショ!』と声を合わせてクジラを引いていた。

ムラの青年なんかは、
ポケットにいつもナイフを入れて持っていってね。

クジラの油ですぐ切れなくなるから、
手に砥石を持っていって、ギシギシ研いで荒削りに骨がなったらぽんと投げて。

われわれはそれに群がって、
肉を缶詰に入れて醤油にかけて食べたら美味しかったー。
 

▲外浜と呼ばれる奄美養魚の敷地。大正元年の火災で最初のクジラ解体場所が焼けたので、
大正2年にここに移転。昭和20年、戦争で当時の施設は全焼した


クジラは油井の端っこ(奄美養魚の場所)で解体していた。
久根津は冷たい風が入ってくる。急に海が落ち込んで深い港があるので、
捕鯨施設を作るには立地が良かったんでしょうね。

捕鯨基地があった時代の施設のコンクリートなど、
残っているものなどは何もない。

でも海岸にはクジラの肋骨が一本残っていて、今でもそのままにしてる。
海の中に潜れば、骨はたくさん堆積してるはずですよ」。



 



 

▲現在の「奄美養魚」の敷地。このあたりに、巻揚機があり鯨を引き上げていたとのこと。
いまはその器具などはなにも残っていない


「クジラが揚がった最後の時を見ていて、
たった一回だったけど、
その時のことは強烈に覚えていますよ。

高校一年生の時には、
久根津の海で沖縄海洋博のイルカのオキちゃんが調教されているのを見て、カッコイイな~と思って。
自分も海の仕事をしたいと思ったんです。
何かの縁だったのかもしれないね」。


 

▲奄美養魚の事務所に飾られているクジラの脊椎




    *    *

大正に生まれ、戦争を経て、米国管理下にあった時代の奄美大島、
そして昭和を生き抜いてきたミスエさん。

うっとりした表情で語られるそのお話は、聞いているそばから
どんどん映像となって
色鮮やかに頭の中に浮かんでくる臨場感あふれるものでした。

ミスエさんが自分の90年の人生の中でも
「1番いい時代だった」と言わしめるほどの輝かしい時代だったようです。

そして、クジラが揚がったたった一回のことを鮮明に記憶している久原さん。


強烈な体験をしたお二人から直接語られる話は、
歴史資料などには載っていません。

個人の体験をその本人から聞くことは、
こちらにもダイレクトに響いてくる
貴重で、本当に面白いものだと実感しました。


こういった生のお話を聞ける機会を増やし、
もっともっと記録していきたいと思います。





2012.10.3

瀬戸内町 久根津

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内