与路島の戦跡 

2013年02月05日 | 関連する集落:与路
第4回島案内人育成講座で行った与路島。

午後は、与路島の山のほうにある戦跡を見学しました。
 

▲第二砲台跡


瀬戸内町の大島海峡は
穏やかで天然の良港として知られ、
戦時、南方戦線へ向かう艦船などの中継基地として、
町内各地に軍事施設が整備されていきました。

第二次世界大戦中、
ここ与路島にも潮早(シュビヤ)山一帯に
旧海軍防備隊基地が構築されました。

その戦跡は、与路集落から車に揺られて山のほうへ約10分。
降りてからもどんどん山の中へ歩いて入ったところにあります。

この見学のため、集落のかたが歩きやすいよう歩道を整備してくださってました。
前の人を見失うと、途端に迷ってしまいそうな山道です。
 


昭和19年10月20日頃、潮早山に
佐世保海軍所属の奄美大島施設部
(加計呂麻島の三浦集落にあった設営隊)が工事を開始。


< 工事内容 >

・第一砲台、第二砲台
・地下弾薬庫
・発電所
・探照灯(照空灯)設置
・兵舎、その付属施設など

工事の人夫は、技術員を除き、与路島の人々を動員。
集落全世帯の割当て作業で、無報酬の労働でした。

なんと小学校2年生以上の児童が駆り出され、
下の黒ん間の浜から山頂の砲台現場まで、
毎日、砂や砂利などの材料を運んでいたとか。

現在、70歳代後半以上のかたは、この強制労働にあたってたわけですね。


▼第一砲台跡。ソテツや木々に覆われて、周囲の自然と一体化してますね



工具は、ツルハシ、スコップ、ジョレン、山鍬などの工具、
モッコ、背負いザルなどの運搬用具が主力の前近代的な作業状況。

最も苦労したのは、
大砲(約25トン)二門を海岸から砲台のある山頂(標高約200m)まで運搬したこと。

運搬用に開設した道路に道板を敷き、
2台のカグラサン(人力ウインチ)を用いて巻き上げ、
20日間以上かけて現場まで引き揚げ設置。


< 揚陸された軍備 >

・15cm砲 二門 
・13mm機関砲 一門
・7mm 機関銃 7門
・機関銃 1丁
・小銃 20丁
・てき弾筒 2筒
・地雷 300発
・手投弾  


▼第一砲台跡の中に入って、与路集落案内人の信川さんのお話をうかがいます



この防備隊基地の構築工事は、
昭和20年3月中旬頃には終了。

しかし備砲や探照灯は実戦に使用されることなく、
昭和20年8月15日に終戦を迎えます。

終戦を迎えた後、昭和20年9月に米軍が武装解除に来て、
黒ん間の浜に弾薬類を運び、すべての武器弾薬は海中に投棄。

大砲は砲身に弾薬を詰め込んで爆破し、探照灯も破壊。


この探照灯はシンガポールのイギリス軍要塞から運搬されたもので、光達距離が18km。

終戦後、一晩だけ夜空一帯を試験照射。
その明るさは真昼より鮮明で夜空を眺めた人々は感動したといいます。

また兵舎2棟は校舎として学校に譲渡されました。



▼第一砲台の中。約70年前のものですが、非常に強固な造り



▼なんと奥まで行くと、コウモリがいっぱい!
オリイコキクガシラコウモリのようです。




海軍防備隊が与路島に駐屯したのは、
昭和19年11月から、翌20年10月までの約1年間。

砲隊・照空隊合わせて、55名の隊員が駐屯。
現地招集で与路出身が3名入隊。

隊員の日常勤務は、敵の上陸に備え戦闘準備が主でしたが、
地域との交流を図り、田植えの手伝いなど住民との交流もあったそう。
なかには、島の娘と恋に落ちて、その後家庭を持った人も。
極限の中にあって、こんな話があるのはちょっと救われますね。


▼こちらは第二砲台。本当に自然なカムフラージュ


 



与路島も空襲を何度も受けています。

昭和19年10月に初空襲。
昭和20年3月13・15日、米軍グラマン戦闘機による空襲が連日のように始まり、
集落の90%が焼失しています。

人々は山の中の疎開小屋や、防空壕の中で生活をして
夜間は灯火管制下で闇の中を往来していたそう。




▼戦跡から戻る途中、ところどころに見晴らしのいいところが。
見えるのは加計呂麻島



▼この「黒ん間浜」から、工事の材料となる砂などを山頂まで運搬。
どれだけ大変だったことでしょう・・。
一番右にうっすら見えるのが加計呂麻島、そのとなりに須子茂離も見えます



▼ここからも「ハミャ島」が見えました



▼砲台跡付近に建てられていた記念碑。
「戦争体験を風化させまい」と、瀬戸内町大正会が建立。



誰も迷子になることなく、無事帰路につくことができました。



与路島の戦跡には、
現在、砲台や敷地、側壁隧道、
弾薬庫などが残っています。

戦争で使われたものがそのまま残っていて、
その実物を見ながら、戦争を経験したり工事に携わった世代から話を聞くことは、
迫力があり、戦争の話がより身近なものとして感じられます。
本当に貴重な体験でした。


 * *

この日は波も荒いということで、
予定より早く古仁屋に戻ることになりました。

与路島を案内してくださった、
(左から)保島さん、信川さん、けんちゃん、中村さん。
港までお見送りしてくださいました。


いつも本当に温かく迎えてくださり、
丁寧に与路島を案内して、
島のさまざまなことを教えてくださいます。


戦争、そしてサンゴの石垣積みなど
知っている世代がどんどん少なくなってきています。

もっともっと与路島のことを学び、
島のことを保存・記録をしていかなければと思いました。


待合所の「また おーりんしょれよ」(また、いらっしゃい)の文字。うれしいですね。


琉球時代、海上交通の要所であった与路島。

よそ者・物をオープンに迎えながら、
自分たちの文化はしっかりと守る気風があってこそ、
独自の文化・風土が生まれたのかもしれません。

与路島のみなさん、
本当にありがとうございました!





〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会
・「 瀬戸内町誌 歴史編 」 瀬戸内町




2013.01.17 瀬戸内町 与路島

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内